Jinya’s blog

福岡大学/商学部・経営学科

哲学〜差別感情〜

今回は、哲学対話として差別について考えていきました。

配布された資料はA〜Dに分かれているのでそれぞれの章を読んでの感想を書いていきたいます。

 

A悪意は人を鍛え人を滅ぼす

 

それぞれの社会に、疫病にかかった者、障害者、ユダヤ人、穢多非人など被差別者はいた。こうした人々を差別する動機はいわゆる悪意ではなく、オソレでありケガレである。

 昔、出産時の血や死はケガレ、オソレとされそれが自分にもうつるとされていたこと思い出しました。これは今起こっているコロナウイルスの件でも言えるかなと、治った後でも煙たがられ、誹謗中傷を受けたりしていると情報番組で取り上げられていた。

 

このAから読み取れることは、悪意を完全になくすことは良くない。

なぜなら、攻撃性(悪意)を持たなければ、支配的な位置に達することもできなかっただろうし、一つの種族として生き残ることさえできなかったから。

そこで著者は自分の中にある差別感情とどう向き合いコントロールしていくかがその人の価値を決めると述べている。

 

フロイトの『文化における不安』のところが何度読んでも理解できない。

特に困難な状況から脱する。そして、ここに「罪責感」が生まれるのである。よって、人間は攻撃衝動を抑える代わりに、生涯を通じて罪責感と闘い続けるのところだ。 

 

B快・不快

差別論の難しさとして

1差別論は個人の快不快には立ち入らない

2だが、現実には差別意識は個人の快・不快の延長上に存在する

二つの対立する命題によって示すという

これらの解決策として

『すべての人は(たとえ他人に対して不快を感じているとしても)あたかも不快を感じていないかのように振る舞うべきである』

しかし次の段落でこれは否定される

不快に思われていた人は、不快を感じていないかのような振る舞いをした人に対して感謝するのではなく、むしろ彼らを憎むというには納得できがだからと言って不快だとマイナスな感情を出すのか?それも違うと思った。

 

後半では、「ある社会的劣位グループの構成員をその構成員であるが故に一律に不快に思うという感情」を差別感情とし、こうした硬い差別意識を差別感情と定義し、そこに湧き上がる不快の感情を抑えるべきである。

ここには納得できた黒人を見ると怖いと思うし、障害者がいると見て見ぬふりをして態度で彼らを差別していた。

納得できない部分もあった、これは社会的劣位グループの構成員だけに限ったことではないということ

たとえば医者の息子なのに勉強ができないとか大手企業の社員なのに性格が悪いだとか

 

 

C帰属意識アイデンティティ

 アイデンティティは役割の束(出身地、出身校、A企業社員、、、)そのものである。よってアイデンティティを確立した者は自分の属している集団を愛している。そのことを侮辱されると怒り、侵害されると防衛する。

自分の所属している集団を過度に愛することは差別感情を育てることにもなる。

これはすごく納得できた

 

少年時代を通じて多摩川をはさんで東京南部と川崎で育ったが、そこには何の愛着も覚えもない。私は、個人的に思う意は郷土愛の全くない人間なのである。

この文章を読んだ時、そんな人いるのか?笑、かわいそうな人だな、よっぽど嫌な過去があったのかななど気づけば悪意のない差別感情をこの著者に抱いていた、、

 

D向上心

ここでは向上心さえも差別感情を生み出すということが書かれている

教師も親も子供たちに「よいこと」をするように教え、成果の上がった子を称賛し、それと同時にできないひとを軽蔑するなと教えられる。しかし、外形的には軽蔑しないかもしれないが、心のうちに軽蔑し続けるだろう。そうでなくとも自分は彼らより優れていると誇るであろう。

小さい頃から植え付けられた意識を変えることは難しいし、他と比べ秀でたいと思うことこそが差別感情を生むことには納得できました。

 

A〜Dを読んで

人間誰しも差別感情を持っているし、それを避けることはできない。だからその差別感情を受け入れ、無意識に自分の解釈を入れず他と平等に接していくことが必要なんだと考えました。

また、向上心などのようなプラスなイメージにも差別感情があることに気づき驚きました。